父方の祖母のお盆法要、墓参りがあったが憂鬱な時間だったという話。
以前の記事で触れたことがあると思うが私の父は毒親である。
というのを前提とした話で、失礼な物言いや不謹慎な内容も含まれるので、苦手な方、不快に思われる方はスルーしていただければと思います。
昔から毒父方の親族がほぼ全員嫌いだった。どうしてこんな人たちばかりなんだろう、と思っていた。
当時から薄々感じていたが、毒祖母の影響が大きいと思っている。毒祖母を頂点として、毒液が垂れてきて、子である父、叔母が毒沼に飲み込まれていって、さらに叔母の旦那にも伝染していったという認識である。
この認識が正しいのかは知らないが、そう思っている以上、法要のような偲ぶ場に行きたくないし、また恨みこそないが毒親戚にも会いたくない。
数時間とはいえ、法要、墓参りのたびに憂鬱な気分になる。
もっとも、これだけ嫌悪感を強く抱くようになったのも近年の話。
ぐるぐる思考をしながら、いかに毒父が自分に生きづらさをもたらしていたかということ、そして背景として毒祖母の存在の大きさを思うようになった。
毒父も毒親になってしまう事情があったのだとは思う。それを言い出したらおそらく毒祖母にも事情があったのであろうが、私の見える範囲では、そこが起点という認識になってしまう。
嫌悪感を強く抱くようになったのが近年の話と書いたが、それは同時に、自身と血のつながりのある人間が毒親、毒親戚であることを近年になってやっと認められるようになったということかもしれない。
あまりにも時間がかかりすぎたが、長きに渡って、自分の感情を押し込んでいたのではないかと感じている。仮にも親とかをそういうふうに思うことへの罪悪感や劣等感があったのだろうかと思う。
毒親、毒族の存在を隠すために他人に嘘をつかなければならなかった。
毒親問題と向き合わないために自分に嘘をつかなければならなかった。
成長があったのか分からないが、やっと少しだけ向き合えるようになってきたのかもしれない。まあ今は毒親の存在を他人に知られうる場面は昔より圧倒的に少ないが、対他人ではやっぱり隠そうとするかもしれない。
私自身、毒親問題をまったく解決できていないわけだが、解決を図る前のステップとして、自分の親が毒親であることを認めることが必要なのではないかと思っている。
そういうわけなので、自分の代になったら、早めに墓じまい、仏壇じまいをしてしまいたいと思っている。お参りをされる側だって、気持ちのない人間にはしてほしくないと思う。
なお、最近知ったが墓や仏壇は相続財産ではないらしい。仮に相続放棄しても即座には解決しない、というのが厄介ではある。
いつまでも毒問題を引きずりたくない。こんなことは終わりにして精神的に自由になりたいと思うところである。
形だけ終わらせても、綺麗に忘れられるわけでもなく、植え付けられた毒を浄化できることにもならないかもしれないが、形から入るのも方法であろう。いつまでも偲ぶ儀式をやっているよりはいい。
しかしながら、本当にそれができるのか、という不安も感じている。事実、今日にしたって、その行きたくない場所に行ってしまっている。前年は嘘の用事を作って逃げたので2年連続は難しいと判断したためである。
正直に言えばよいと普通育ちの人は思うのかもしれない。
情けない話だが今でも毒父が怖い。毒父の意に反することを正直に言ったら、どんな言葉を浴びせられるかが怖いのである。
こちらの考え方のひどさを糾弾する罵倒かもしれないし、逆にかわいそうな人を演じて罪悪感を植え付けてくるかもしれない。昔は前者が多かったが、ある時期からは後者のパターンの方が多くなってきていると感じる。
毒父が前にいるから自分の気持ちに正直な行動がとれないのであって、それこそ自分の代になるような時期になれば精神的に自由になれるのだろうか。
だといいのだが、そう断言できる自信がないのも、モヤモヤとした憂鬱さの一因なのかもしれない。
というのも、毒父自身が、今なお毒祖母の幻影に翻弄されているように見えて仕方ないためである。
いつまで認められたい一心で行動するのかと思ってしまうが、この話は私にも当て嵌まる可能性があるのではないかとも感じている。これだけ恐怖を感じるのは、認められたい、見捨てられたくないといった心理が働いているのではないかと。
そんな人たちに認められたところで幸せになれない、と思っているはずなのだが、何がそうさせているのか分からないのが苦しい部分でもある。血を介した毒の深さなのかもしれない。
以上、普通育ちの人からすると、意味不明すぎる話を長々と書いてしまいました(たぶん離脱していると思うが)。と言いつつきっと誰かに共感してほしいんだよね。そういう気持ちで書いた次第です。
最後までお読みいただきどうもありがとうございました。