記憶に残る日本ダービー 2000アグネスフライト

今週はダービーウィークです。一般的にも注目度の高いレースですが、その中でも印象に残った日本ダービーの話でも書こうかと思います。

今回取り上げるのはアグネスフライトが勝った2000年。

良血ながら若葉Sで大敗して皐月賞には出られなかったアグネスフライトだが、京都新聞杯で覚醒。上位人気の1頭としてダービーに挑むことになった。
アグネスフライトの鞍上の河内現調教師は当時45歳。当時の45歳というと、今と違って、かなりのベテランというイメージで、河内騎手もこのときがダービー制覇のラストチャンスという雰囲気が漂っていたと思う。

 

道中最後方に位置したアグネスフライトだったが、1人気の皐月賞馬エアシャカールが動くと相手を1頭に絞ったように進出。直線では一旦抜け出したエアシャカールにアグネスフライトが襲い掛かり一騎打ちの様相となった。
「外からアグネス!外からアグネス!」
「河内の夢も飛んできている!」
「河内の夢か!豊の意地か!どっちだー!」
名実況の言葉通り、ほとんど並んで入線したが、ハナ差でアグネスフライトに軍配。河内騎手は17回目の挑戦でダービージョッキーの称号を得た。前人未踏のダービー3連覇を逃した弟弟子の武豊騎手との握手も清々しかった。
翌年はアグネスタキオンがいたが、ダービー前に故障でリタイアしてしまったので、結局アグネスフライトのときがラストチャンスだったということになる。

河内騎手の夢がついに叶った2000年のダービーだったが、アグネスフライトの勝利によって実は他にも救われた者がいるのではないかと思っている。
惜しくも2着に敗れたエアシャカールである。エアシャカールは秋には菊花賞を制し2冠馬となった。単純には言えないものの形式的には僅かハナ差で3冠の偉業を逃したことになる。
しかし、この世代は相対的に弱かった。同年のジャパンカップで残酷な結果となり、古馬になってからもその評価が覆されることはなかった。
仮にエアシャカールが3冠馬になっていたら、他世代と戦う上で、そのタイトルがとんでもない重荷になっていたのではないかと感じてしまう。2冠でも実際重かったと思うが3冠となるとその比ではない。自らの力でまっとうに掴んだ実績に苦しめられるなんて、なんとも理不尽な話だが、これは人間の世界でもわりとよくあること。なので、アグネスフライトのダービー制覇は河内騎手の夢を叶えるとともに、同世代のライバルの負荷を軽減するものでもあったのではないかと。

ダービーの中ではレベルの高いレースではなかったのかもしれないが、2000年のダービーは振り返るとそれぞれのドラマがあったように思う。今年アグネスフライトが亡くなった際のコメントだが、河内調教師にとっては「人生を変えてくれた馬」だったということ。人生は変わらないが、ファンにとっても名実況とともに印象に残るレースだったのではないでしょうか。共感してもらえれば幸いです。

さて2023年のダービーはどんなレースになるのでしょうか。

*記憶に残るレースとして、こちらにも記事を書いていますので、よかったら覗いてみてください。


最後までお読みいただきどうもありがとうございました。